埼玉県川越市の株式会社龜屋|天明三年(1783年)から続く和菓子屋

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龜屋の歴史

龜屋は天明三(1783)年の創業以来、二百三十余年、川越の地で菓子づくりを続けてまいりました。ここでは龜屋の菓子づくりの歴史について解説致します。

1783年龜屋創業


龜屋の古写真

川越の古い街

宝暦六(1756)年。現在の長野県中野市上笠原の武家の三男に生まれた初代は、武士の道を捨てて商人になることを決意しました。何故初代が武士の身分を捨てたのかは詳しく伝わっていませんが、家督を次ぐことのできる長男でなかったからと考えられています。

十代半ばでひとり故郷を出た初代は、当時の関東では江戸に次ぐといわれた町「川越」で菓子屋を営むことにします。亀屋新井清左衛門方にて十余年の菓子づくり修行ののちに独立し、天明三年(1783年)、二十八歳の時、ついに現在の本店の場所に自らの店を開きました。その際に修行先から暖簾を分け受け、「龜屋」と屋号をつけました。

この時の日本は天明の大飢饉のさなかで、龜屋が創業した天明三年は、浅間山が大噴火を起こして農作物が大きな被害を受けた年でもありました。そのような時分に和菓子屋を開業することは考えにくいことから、実際の創業は1783年より以前であろうと考えられています。(現在の創業は龜屋に残る最古の取り引き記録から設定されています)

嘉七の襲名


永宣旨

初代が五十六歳で他界すると、婿養子が二代目を襲名します。この時から代々の主人は「嘉七」を襲名することが龜屋の伝統となりました。二代目の嘉七は、初代の遺した上物主義を踏襲し、一切品質に妥協しないという姿勢を貫いて家業をさらに発展させました。

天保二年(1831年)に嘉七を襲名した三代目の時、龜屋は川越における立ち位置を確立します。それまでの菓子づくりが川越藩に認められ「御用商人」として出入りを認められるようになった他、京都嵯峨御所から「河内大掾」の永宣旨(任命書)と「藤原嘉永」という名を賜りました。

山崎豊のユニークな菓子


つぼや修行

龜屋中興の祖と呼ばれる山崎豊(幼名文次郎)は、若い頃、当時江戸屈指の菓子店と云われた「つぼや」で修行をしました。しかし、任せられるのは拭き掃除などの雑用ばかりで、いつまでたっても肝心の仕事を教えてもらえません。そこで豊は、どこで切っても「寿」の文字が現れる練り切り(寿餅)を試作して、職工長の目に留まるところに置いておきました。豊の考案したユニークな菓子は、思惑通り職工長の目に留まり、これによって様々な仕事を任せられるようになったと伝わっています。
修行から帰った豊は、十七歳で嘉七を襲名。本店の建物と商品を洗練された江戸風につくり変え、より一層、藩からの評価を高くします。それにより川越藩から引き立てられ、名字帯刀御免となりました。

明治の変化

明治の変化
川越商工会議所

長い徳川の時代が終わり、文明開化と西洋化の波がこの国に押し寄せます。時代は明治になりますが、川越の商人たちはいち早く時代の変化に適応していきます。豊は県内初となる第八十五国立銀行の設立に尽力して、初代の頭取に就任します。この時豊は、すでに嘉七を息子(半三郎)に譲っており、自身は銀行業や商工会議所の設立などに注力していました。さらに地元の有力者らと画宝会を設立して、元川越藩士の日本画家「橋本雅邦」を経済的に支援するなど、文化活動にも積極的に参加していました。

川越大火と五代目の考案


初雁焼

十四歳で嘉七を襲名した五代目も、豊に負けず劣らずの商才を発揮します。しかし、明治二十六年(1893年)に発生した川越大火により町域の三分の一が焼き尽くされ、龜屋も本店を焼失してしまいます。焼け残った家屋がすべて耐火性に優れた蔵造り建築だったことから、その優秀性を再認識した川越の商人たちは、職人を江戸から呼び寄せて町の再興を行いました。龜屋本店に代表される蔵造り建築は、当時、江戸で流行っていた黒漆喰の見世蔵を手本に建てられています。そのため川越の町は、当時の江戸を懐わせる景観を現在に残しています。

五代目は、当時発見されたばかりのさつま芋の品種である「紅赤」に注目して、これを使ったお菓子を考案します。これは紅赤を薄く切って鉄板に挟んで焼いたお菓子で、川越城の別名である「初雁城」に因み「初雁焼」と名付けられます。これが川越名産の芋煎餅の元祖になりました。また明治三十九年(1906年)には、洋菓子の製造販売を始めました。

六代目の代表銘菓と休業


亀の最中

六代目は、当時、東京最大の菓子舗であった本郷の藤村本店で修行をしました。修行を終えて川越に帰ってくると、昭和二年(1927年)、三十五歳の時に六代目嘉七を襲名します。六代目は、亀甲型をした一口サイズの最中である「亀の最中」や、藤村の修行経験から学んだ「きみしぐれ」など、現在にも残る龜屋の代表銘菓の数々を考案する他、八十五国立銀行、川越貯蓄銀行、一県一行の原則で新設された埼玉銀行などの頭取を歴任しました。しかし、戦中戦後の物資窮乏の情勢の中、闇砂糖での菓子づくりを行わなかった龜屋は、昭和一八年(1943年)ついに休業を余儀なくされます。結局、事業が再開できるようになったのは昭和二七年(1952年)のことでした。

七代目の移転と八代目の商品考案


亀どら型

昭和五十年(1975年)に社長に就任した七代目は、本店裏に併設されていた工場を、昭和五十六年(1981年)現在の川越市芳野台に移転しました。また昭和五十七年(1982年)には四代目生誕150周年を記念し、旧工場跡地を利用して「山崎美術館」を開館しました。

現在の龜屋八代目は、昭和五十九年(1984年)に社長に就任しています。八代目は、亀の甲羅の形をしたどら焼き「亀どら」や、小江戸川越ならではのさつま芋の形をしたシュークリーム「小江戸川越シュー」など、オリジナリティ溢れる商品を考案開発しています。

創業二百三十余年、私たち龜屋は、どんな時代もこだわりの菓子作りに徹してまいりました。江戸から平成、そして次の時代も、食の安全と品質の向上に努めて一切妥協のない菓子作りを続けてまいります。